中日研究家 4月20日



 ドラゴンズは昨夜も勝てなかった。
 だが、研究家は決して感情的になってはいけない。

 どれだけ残塁の山を築いても「何年も観測されてきた事象です。この事象の再現性はとても高く、監督が交代しても引き続き観測されています」と考えよう。

 外野手がクッションボールの処理を誤っても「前の試合でも同じような事象が観測されました。この事象の再現性が高いという仮説は、これで裏づけられました」と考えよう。

 走塁死するのを見ても、牽制死するのを見ても、バントを失敗するのを見ても、「グラウンドの上ではどんなことも起こり得ます。私が見たことない光景は、まだまだたくさんあるのです」と考えよう。

 外野手がサヨナラのランナーを刺せなくても「人は必ず老います。年齢とともに肩は弱くなります。何人も時の流れに抗うことはできません」と考えよう。

 若き四番打者がホームランを打ったことを思い返し「昨年もこの球場で同じ事象が観測されています。球場が変わっても同じ事象が起きるかもしれません」と考えよう。


 私はいま、浄土真宗で言う「他力」の思想に突き当たっているのかもしれない。他力というものを理解できているのか、信じられるのか、試されているのかもしれない。

「こんなに懸命に応援したのだから勝ってくれる」などと考えているうちは、まだ自力を恃んでいるのである。
 自分はただの観客であって選手ではない。プレーしているのは選手であって自分ではない。自分がどれだけ念じても、試合の結果を直に左右できるわけではない——そんなことは頭では分かっていても、心の奥底では「自分の行動(応援)に対して報いがあるべきだ」と思っているのだろう。「自分が行動したのだから結果は変わるべきだ」と思っているのだろう。まだ自力救済の理屈を信じているのだ。

 私は自分で自分を救うことができない、ちっぽけな存在である。救われることがあるとすれば、ただ他力によって救われる場合のみ。その真実をよくよく自覚するべきなのかもしれない。

(最近たまたま柳宗悦の『南無阿弥陀仏』を最近読んで影響されたんですすいません)


中日研究家という言葉2



野球ファンの10の特質、とでも言うべきコピペがある。

シカゴ・エコノミック紙のロバート・ブラッグス編集長のファン評
1:ファンとは、掌を返すことに関してはメジャー級である。
2:ファンとは、自分たちの誰より経験豊富なプロの監督よりも、自分のほうが采配が上手いと思っている。
3:ファンとは、選手獲得にはお金がいらないと思っている。
4:ファンとは、トレードは相手があってこそ成立するものという常識を持ち合わせていない。
5:ファンとは、球団は自分たちの意に沿うように動かなければダメ球団だと思っている。
6:ファンとは、起用されない若手は起用されているベテランより能力が高いと思っている。
7:ファンとは、起用されないベテランは起用されている若手より能力が高いと思っている。
8:ファンとは、応援が免罪符だと思っている。
9:ファンとは、負けが込んでいる時、往々にして理想論が現実と摩り替わる。
10:ファンとは、客観と主観の区別がつかない。

 いつ頃からネットに流布しているのかは知らないが、ゼロ年代2ちゃんねるで何度か目にしたような気がする。
(ちなみに、私のリサーチ能力と英語力では英文のソースを見つけられなかった。もしかしたら日本で創作されたコピペなのかもしれない。)

 どうしてこんな古いコピペを引っ張り出したのかというと、「中日ファン」と「中日研究家」の違いについて自分なりに考えてみたいと思ったからだ。ファンと研究家は、何が違うのだろうか。

 正直、項目1〜7には大して心を動かされなかった。皮肉は利いているが、それだけだ。「ファンの中でもタチの悪い人」の特徴は説明していても、「ファンと研究家の違い」の説明にはなっていないだろう。
(中日研究家だって采配批判はするし、特定の若手を推したり掌を返して批判したりするのではないか。程度の差はあれ)

 8は意味がよく分からなかった。おそらく「応援を免罪符にして個人攻撃をする」ということなのだろう。
 これは一応、ファンと研究家の違いになるだろうか。研究家は批判はしても感情的にはならない。決して個人攻撃はしない。自分の発言には責任をもち、応援を免罪符にすることはない。

 9はかなり本質的なポイントなのではないか。
 ファンは理想と現実の区別がつかなくなることがある。しかし、研究家は決して両者を混同しない。現実と理想が食い違ったとしても、現実の方を直視するのだ。
(それ以前に、今のドラゴンズにとっての理想って何だ? 弱すぎるチームは理想像すらイメージできないぞ? という問題が存在するのかもしれない)

 10も本質を突いているだろう。
 主観と客観の区別がつくこと。おそらく、これがファンと研究家の最大の違いだ。
 前回の記事にも書いたが、研究家は常に客観的な視点を忘れない。事実と意見の境界を知っている。どこまでが事実で、どこからが自分の意見なのかを知っている。

 では、上記コピペを改変してまとめてみよう。
(中日)研究家とは、

  1. 掌を返すこともあり、
  2. 自分たちの誰より経験豊富なプロの監督よりも、自分のほうが采配が上手いと思っているかもしれず、
  3. 選手獲得にはお金がいらないと思っているかもしれず、
  4. トレードは相手があってこそ成立するものという常識を持ち合わせていないかもしれず、
  5. 球団は自分たちの意に沿うように動かなければダメ球団だと思っているかもしれず、
  6. 起用されない若手は起用されているベテランより能力が高いと思っているかもしれず、
  7. 起用されないベテランは起用されている若手より能力が高いと思っているかもしれないが、
  8. 応援を免罪符にした個人攻撃はせず、
  9. 負けが込んでいる時でも、理想論と現実を摩り替えることはなく、
  10. 客観と主観の区別がきちんとついている

……そういう人たちのことである。

 でも、これだと「暗黒時代のチームを応援している」という要素が漏れてしまっているか? うーむ。
 

 

中日研究家という言葉



「中日研究家」というネットスラングがある。
 中日ドラゴンズを応援している人、頻繁に中日ドラゴンズの試合を観戦する人、要するに「中日ファン」のことである。
 より正確には中日ファンが自分たちを指して(おそらく自虐的に)使う言葉である。

 なぜ素直にファンと言わず「研究家」などと自称するのか。
 答えは簡単だ。ドラゴンズというチームが競争力を欠くから。端的に言えば、弱いから。*1

 どれだけ熱心に応援しても、勝ち試合が見られることは少ない。応援にかけたエネルギーに対して、見返りがあまりにも乏しい。

好きで応援してるんだから見返りなんか求めるな。

どんな時にも応援し続けるのが本当のファンというものだ。

——という「正論」もあるが、常にそんな風に考えられるわけじゃない。少しは見返りが欲しくなる時だってあるよ、人間だもの。

 自分はドラゴンズというチームを「応援」しているのではなく、「研究」しているのだ。そう思わないとやっていられない。

 研究家なのだから、常に客観的な視点を忘れてはならない。感情的になってはならない。

 アキーノがフライを落球したら「この事象には再現性があると分かりました。中日研究の道がまた一歩前進しました」と言う。
 満塁のチャンスで点が入らなかったら「この事象は過去5年、10年という単位で観測され続けています。満塁無得点の法則に今日も異状はありません」と言う。
 涌井秀章が好投しても負け投手になったら「この事象も非常に再現性が高いと分かりました。今日も無援護の法則に乱れはありません。宇宙はつつがなく存在しています」と言う。

 グラウンドで起きていることと、それを見ている自分の感情をどれだけ分離できるか。
 小さな出来事に対して、どれだけ驚きや神秘を見出せるか。
 ドラゴンズというチームを見守り続けるための鍵は、そこにある。


………「中日研究家」という言葉は、以上のような思考過程で生まれたのだろう。たぶん。

*1:しかも、ランナーは出すのに点が入らないという非常にストレスの溜まる負け方が多い。

リニューアルしました、が……



 どうも、赤嶺瞬介です。

 同人音声の制作を本格的に始めようと思うので、ブログもリニューアルすることにしました。

 以前は「赤嶺瞬介のメモ帳」というタイトルの通り、メモ帳代わりにブログを使っていたし、けっこうまめに他人にとって需要のないことばかり書いて更新していました。

 今後はそこまで頻繁に更新しないのではないかと思います。

 月に1、2度くらい自分の生活を振り返るのと、作品が発売された時にちょこっと紹介記事を書くくらいかな。